休みの在り方
複数の仕事を抱えて休みがないというのがここ数年の悩み。ずっとそんなではあったのだけど、確実に休日の予定が半年先まで確定しているとよく「半年休みがないの確定」という人の言うこともよく分かる気もする。
ゲームやったり、映画みたり、買い物したり、消費的な休日というのを最近過ごしていない。そればっかりだとイヤになるのに、それがなくなるとそれはそれで不安なものだ。映画の1本くらいは月に1度は見たい。せめてDVDで。
絶望と成長
絶望、というとあまりいいイメージは無い。あきらめ、と言ってもいいイメージは無い。そのままを受容する、と言えば心地よく聞こえるか。
とにかく絶望することが多くなった。海外勤務が多い人は多様な価値観に触れて多様な価値観を受け入れられるようになるかと思いきや、全く変わる気配は無い。年齢が上の人は色々な経験から、賢い行動をとるようになるかと言えばそうではない、色んな修羅場を潜り抜けると心が強くなるかというとそうでもない。
自分の中には成長神話が根強くあった。少年の頃に努力、友情、勝利の漫画に強く影響を受けたからか、人は変われる、良くなっていく、成長する、そう信じていた。
しかし年を経るごとに傲慢な人はいつまでも傲慢で、視点の狭い人はいつまでも狭い。それが絶望の背景。なんで大人はあんなに保守的なのか、という子供の頃に思っていたこともよく分かる。変わっていける、変えられる、と信じきれないからだ。自分と同じかそれより上の人が希望を持っていると素晴らしいと感じる。
とはいえ、絶望も悪いことばかりではない。人は変わらない、ことを受け入れてしまえば、変えようとすることにエネルギーを使う必要は無いからだ。合わなければ離れればいい。エネルギーを向ける先は自分なのだ。
かしこいひと
同じようにメンタルに疾患を持つ女性と待ち合わせをして会話する時間をもてた。
彼女はとても元気がなさげに見えたが、時おり昔ながらの強い意思も垣間見ることができて、彼女の中でもゆらぎがあるようだった。
彼女はとてもかしこい人物だ。物事を多面的に捉えることができる。自分にストレスを与える相手の気持ちも、自分の気持ちも客観的に察することができる。だから「あいつが悪いんだよ!」なんて軽はずみには言えない。彼女の場合は頭で全て理解をしていて、感情だけがついていっていない感じだった。
ろくなアドバイスもできなかったが、なんだか近しいものを感じた。理解はしている、でも感情が追いつかない。きっと考えることではなく、身体感覚に身をゆだねることが大事なんだ。
空気を吸って気持ちいいこと、風が肌をなでる感覚、水が冷たい感覚、考えずに身体が感じることを、意味も考えずに感情へ伝えること。子供はきっとこれができているのだ。
読書感想を書かなくなった
一時期、読んだ本はすべて感想をWebに記録していた。感想というかレビューというか。
パニック障害の状態の時はとても文章なんて出てくる状況ではなかったことと、本を読む暇が無いくらい忙しかったこともあり、滞ってしまった。
もともと感想はインプットしたものに対して形のあるアウトプットを作る練習として行っていた。時間が経つと客観的に見られるようになるもので、これらの記録を改めて見てみると何ともイヤ~な気持ちになる。
というのも批判的なものというか上から目線というか、他人の生産したものに対してよくもまあ偉そうにそう言えるね、という意識が先に立った。感想を書いている当時もそんな意識はあったが、今はもっと自分のことのように感じる。それもきっと自分の仕事が大勢の目に触れてフィードバックをもらうような立場になったからだ。
批判をするのはいい、感想を正直に書くのもいい、でもそれをやるのは自分がちゃんとアウトプットを作ってからだ。そうでないとだれかのアウトプットを批判するという行動が身体に染みついてしまう。これは意識的であれ無意識的であれ、精神や身体が学習してしまうものだ。他人に対していつも後出しじゃんけんにならぬよう、しばらくは自分のアウトプットに集中してみる。
ふたたび生還
パニック障害から再び、いや三度?四度目?
生還できました。
鬱やPDの人にはとにかく薬を飲めといいたい。
薬を飲むと絶対治るとは言わないけど、薬を飲んで治ったらラッキーだからだ。
また、薬を飲んで症状が改善することで、自分の状態が努力の欠如でも精神的弱さでも傷つきやすさでも軟弱でもなんでもなく、ただの病気の症状なのだと自覚できることが大きい。
あの状態にいるときはどうしても自分を責めてしまう。それは過去の経験から安易に自分の心の弱さだと結論づけてしまいがちだ。いや、頭ではそうでないとわかっていても心の底で「やっぱり俺の心の弱さが」と信じている。自分の場合は薬を飲むことで効果が効いている間は自分が特殊な状態にあったということを自覚できる。翌朝になるとまた落ち込んでいる状態になってしまってはいるが、薬を飲めば、この意識は消えるのだと理解することで客観的に今の自分が真実ではなく、幻想にとらわれたものだと自覚できるようになる。それまで地続きと思っていた鬱と平常の間に断絶を作ることができる。そうすることで、「あ、今日は症状が出ているな、薬を飲んでおこう」と割り切ることができる。これが自分にとっては大きくて、それを繰り返すことでだんだんと薬の量と回数を減らすことに成功した。
完治したとは思わない。もう4度、5度繰り返していると、きっとまた環境が変わって落ち込むのだろうと予想する。しかし次は違う。その状態になったら迷わず薬を飲む。自分が悪いと思い込む前に。これが分かったことも心を強くする一助となっている。
あの状態の時、世の中のささいな何かにも深く傷つき心をえぐられ、「これ以上刺激のある世界にいきたくない」と思っていたが、今は少しは人と対立や議論をすることも受け入れられるようになってきた。なぜあれほどまでに刺激を恐れていたのか、今の心からは理解ができない。