パニック発作再発。

あきらかに多忙によるストレスの影響だ。

ストレスをかける相手がいるのが原因ではあるが、それはトリガーでしかない。そのあと自分の心が自分が対応しきれないことに無価値であると感じてしまうのが問題だ。

血の気が引き手足が冷たくなる反応がある。肌の表面が全て神経になったような過敏な状態。ざわざわと毛羽立つ感覚。

まだこんな外敵圧力に弱いのかと少し悲しくなる。

 

ゆらぐ

安寧を取り戻した心だが、仕事の内容に大きな変化が生じ始め、人間関係の変化が生じるとやはりまだ感じる不安は大きい。まだ、多少薬のお世話にはなっていこう。とはいえ、心の中のゆらぎも一線を越えないほどのゆらぎであり、病気の症状には至らない。健康な時でも感じる不安と同等レベルな気もする。

 

不安の原因のひとつに自分が大きく費やしている時間に対して情熱を注げないことに、その時間の集中力を大きく削ぐ結果になっていることがある。他に情熱を注げることを見つけると、他に費やす時間がとてつもなくもったいなく思える。情熱が注げないから生産性が上がらない、やる気が上がらない→関係者には申し訳ないという気持ちがある→追いつけるよう学習をしようと思う→しかし情熱が無いから続かない、というスパイラル。

情熱を注げることを見つけているだけ幸せなことだとは思うが。。

回復する不安

ここ最近は落ち込みも少なくすこぶる調子がいい。というのも、仕事がひと段落したことと、ストレスの原因が遠ざかっていることと、自らのモチベーションの源泉となる活動がうまくいっていることがある。投薬治療が効果を出してきてるのだろうか。
しかし、毎回同じことを怖いと感じるが、回復している状態で落ち込んだ時の気持ちをまったく思い出せないことだ。だからこそパニック障害や鬱の人の気持ちに立って考えるということは、そうなったことのない人にとってはほとんど無理なのだろうという確信がある。最も理解を求める状態の人の気持ちを理解できなくなる、ということがとても怖い。

なによりも回復するということは再びあそこには戻りたくないという不安も抱えることになるのだ。贅沢な悩みだが、それにも慣れていきたい。

コンテンツの多様性と細分化と豊かさと

みんなちがってみんないい――「集団」になれても「団体」になれない私達
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20130920/p1

資本主義が加速してあらゆるものを細分化してサービスや商品として提供するようになると、人の価値観も細分化した。鉄オタにも多様な分類があり、アニオタにも美少女系が好きな部類もあればロボットものが好きな部類もある。音楽は昔から多様性を持っていたがメインストリームがあった。しかしいまやメインストリームと言われているものも数ある音楽の1つでしかないという感覚が多くの人にある。
きっとこの多様性が物的な豊かさなのだけど、やはり精神的豊かさには全体として貢献したとしても個人には何も貢献していないのかもしれない。
価値が多様化した分、人が集まった時に共有する話題が少なくなり、自分が自分であれるのは家に帰った時か時間を超えることのできるネット環境で趣味の合う人と話す時だけ。ネット依存になるのも分からないでもない。人間は孤独に弱いからネタに群がって孤独を癒すのだ。

古いものが再評価されるのもよくわかる。その時代を共有した価値観で一体感を感じることができるのだ。懐かしい音楽、懐かしいCM、懐かしいテレビ番組。もし今の時代を何十年後かに振り返るときに同じような会話はできるのだろうか?「Youtubeであの動画見たよね~」「ボカロのあの曲良かったよね~」「倍返しのドラマ面白かったよね~」という会話になるだろうか。それに対して「そうそう!」「わかるわかる!」なんて会話をしている未来はあまり想像できない。

罪と罰

佐々木俊尚さんのコンビニ冷蔵庫議論まとめ - Togetter
http://togetter.com/li/558574

興味深い示唆がたくさんあった。キーワードを列挙。

罪と罰の非対称性
・モラルのある人/無い人、が居るのではなく個人の中にもモラルのある状態/無い状態が存在するということ
・ばれないことによる「ワンクッション」みたいなものが社会を円滑化しているのですよ。互いに苛烈な道徳を求め合う社会に未来はない。
・反道徳なのではなく、メディアリテラシーが低くて自分のバカげた行為をSNSで拡散してしまっただけ。つまり批判されるべきは「反道徳」ではなく「低メディアリテラシー」ということ
・意と制裁がごっちゃになっているような気がしますね。厳しい注意は必要ですが、社会的な制裁を加えるほどではない、そういう判断もあっていいと思います。社会が人を育てる、そんな視点も必要ですよね。
・これからやってくる総透明社会では、寛容にならない限り、苦しくて苦しくて堪らない状況になっていくと思いますよ。みんなそれがわかっているのか。
・反論してる人で「社会的制裁を受けなければ、モラルのない行為がエスカレートしてしまう」というのがあったけど、実際にエスカレートしてるのは叩く側の行為だ。モラルのない行為は表に出なくなるだけ。
・病理的有害性と心理的不潔さが混同されるせいですね。影で支配しているのは、穢れの思想と無知。大抵の病原菌は酸素に触れ死ぬか、人間と共生しているものだから問題ない。サルモネラ菌や一部の大腸菌等特定の病原菌のみが重大な影響を及ぼす。
・ゼロリスク思想=過度な倫理観=過度な潔癖症、はすべてつながってると思うんだよね。それが今の日本社会の最大の問題ではある。

 

保身と責任範囲

産業医との面談。どうやら前回の面談内容は引き継がれていないらしい。カルテとかに記入されていないのかな。
まずはカウンセラーとの面談だが、心身の不調は多忙にのみ原因があると考えているらしい。だから質問は「あとどれくらいで今の状況が終わるか?」に終始する。あわよくばその状況が過ぎ去ってくれるまで自分としては行動を控えたいことが伝わってくる。実態はプロジェクトの体制が変わらない限りこの状況はずっと続く。

産業医との面談にしても同じだ。記録を取ること、睡眠をとること、食事をとること、運動をすること、をアドバイスされる。誰だってそれが出来ていて健康になるなら医者にはかからないだろう。しかもそれらは自分としてはできているわけで。

病気の本質を理解していないのだな、この人たちは何もしてくれないのだな(そういう役割を負っていないのだな)というのがよく伝わってくるので、ここでは聞かれた質問に事実のみ答えて終了。自分で信頼できる人を見つけて道を切り開いていくしかない。彼らも与えられた役割の中で得意でないことを精一杯、もしかしたら嫌々やっているのかもしれない。そう思ったら特に嫌な感覚もなく割り切ることができた。

組織の価値観を変えるということ

統制がきかない時代のリーダー像–鍵を握る「オープンリーダーシップ」

http://media.looops.net/saito/2013/09/02/sp_orgtransparency-3/


共感できる。確かに自分の信念を貫いていけばいずれ味方も増えて変革を招くことができるかもしれない。

ただ、もう自分には、自分に限って言えば、組織の価値観を変えようなんて野心も意気込みもない。同じ志の人が集まる場所に移動するだけだ。今現時点で人の考え方が(今のプロジェクトメンバーが変わっていけるポテンシャルを持っているとは)そう変わるとは信じられない。